仏陀の教え-仏教用語集-あ行

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仏教に関する用語を集めてみました。

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仏教用語について

仏教用語について-あ行

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愛(あい)

仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」と『涅槃経』にあるように、愛は迷いや貧(むさぼ)りの根源となる悪の心の働きをいいます。
のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貧り執着する根本的な煩悩を指します。

愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味をもっています。

一方、仏教では、このような煩悩にけがされた染汚(ぜんま)愛ばかりでなく、「和顔愛語」のように、けがれていない愛も説かれています。
仏菩薩が衆生を哀憐する法愛がそれなのですが、たいてい「慈悲」と呼ばれているようです。

挨拶(あいさつ)

挨拶という言葉は、仏教語です。
挨は「押す」ことです。
拶は「せまる」という意味から、挨拶は、前にあるものを押しのけて進み出ることをいいます。
「一挨一拶(いちあいいつさつ)」といって、師匠が門下の僧に、または修行僧同士があるいは軽く、あるいは強く、言葉や動作で、その悟りの深浅を試すことがあります。
これが挨拶です。

そこから転じて、現在のように、やさしく、応答とか返礼、儀礼や親愛の言葉として使われるようになりました。

愛敬(あいきょう)・愛想(あいそ)

「男は度胸、女は愛敬」とか、「愛敬をふりまく」など、愛敬といえば、にこやかでかわいらしいことや、愛想のよいことを意味する言葉として知られています。

この愛敬は本来「愛敬」と書き「アイギョウ」と読んで仏教語でした。
愛(いつく)しみ敬(うやま)うことを意味したのです。

仏や菩薩の容貌は穏和で慈悲深く、拝む人たちが愛敬せずにはおられない相を表しておられるので、その相を愛敬相といいます。
愛敬は、その愛敬相から来たものです。

また、「愛敬がよい」とか、「愛想が尽きた」などと使われている愛想という語も、本来は「愛想」で、そのもとは同じ愛敬相から出た語のようです。

同じ愛敬相から、愛敬と愛想が生まれ、そうれが、愛敬と愛想となっていったようですが、いずれも、もとは仏さまのお顔の相だったのです。

愛別離苦(あいべつりく)

会った者は、いつかは必ず別れなければならない時が来ます。
その別れの苦悩のことです。
四苦八苦というときの八苦の一つ。

阿吽(あうん)

相撲の仕切りは「阿吽の呼吸」を合わせます。
吐く息、吸う息を合わせるのです。

社寺の門前のコマイヌさんや、山門の仁王様は、一方が口を開いて「ア」、他方は口を閉じて「ウン」と、阿吽の姿をしています。

インドの文字である梵語(ぼんご)では、最初が「ア」と口を開いて出す音声で「阿」と訳され、最後は「フーン」と口を閉じて出す音声で「吽」と訳されています。

密教では、阿吽を、根源と帰着、菩提心(ぼだいしん)と涅槃(ねはん)などの象徴としているともいわれているようです。

阿伽(あか)

梵語アルガまたはアルギャの音写。
客の接待に供せられる水のことです。
転じて仏前に供える水、さらに供物の意味です。
それを入れる器の意となりました。

諦め(あきらめ)

どうにもならないことをくよくよと考えないで断念することを「あきらめる」といいます。

仏陀は、悟りを開かれた後、ベナレスのミガダーヤで5人の友人たちに、初めて法を説かれました。
初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ばれているのがそれで、その説法の内容が「四諦」の教えでした。

諦とは「まこと」とか「真理」という意味で、動詞として読むときには「あきらめる」すなわち、「明らかに真実を見る」という意味です。

仏陀はその悟りの内容を、苦諦(くたい)・集諦(じつたい)・滅諦(めつたい)・道諦(どうたい)の四つの真理に分けて教え、それを見ることによって、真理を知ることができると説かれました。

諦という語は、現在のように消極的な用い方ではなく、真理を悟るという力強い語です。

悪趣(あくしゅ)

悪業の結果行わねばならぬところ。
地獄・餓鬼・畜生の三道といい、ここに転々と生まれかわることを悪道の輪廻といいます。
さらに修羅・人間・天上を加えて六道といいます。

悪事千里(あくじせんり)を走(はし)る

この諺は、悪い行いはすぐ世間に知れ渡る、という意味です。
『景徳伝燈録』に「好事門を出でず、悪事千里を行く」とあるのが、この諺のもとです。

好い事はなかなか世に知られないが、悪い事はすぐに広まる、世相です。
だからこそ、達磨大師は好い事を伝えるために、インドから遠く中国までやって来たのである、というのです。

悪人正機(あくにんしょうき)

悪人こそが、阿弥陀仏の救済の第一の対象となっているということです。

阿号(あごう)

能の観阿弥・世阿弥、水墨画・連歌の能阿弥、書院造の相阿弥、作庭の善阿弥、立花の立阿弥、美術品鑑定の千阿弥など、名に阿弥がついています。

名前の下に「阿弥陀仏」略して「阿弥」「阿」をつけるのを「阿弥陀仏号」略して「阿号」といいます。

これは、法然上人から念仏の教えを聞いて感銘した俊乗房重源が、みずから南無阿弥陀仏を名としたところから、浄土宗や時宗などでよくつけられ、中世以降は、仏工・画工・能役者など、芸能関係者が好んで用いました。

昔、筒井順昭が病死したとき、嗣子の順慶がまだ幼かったので、敵から攻められるのをおそれて、遺言により、声が順昭とよく似ていた南都の「木阿弥」を寝所に寝かせ、順昭が病気で寝ているように見せかけました。
そして順慶が長ずるに及んで、順昭の喪を発表したと、『天正軍記』は紹介しています。

順昭の代役を勤めた木阿弥は、もとの市人に帰っていきました。
今では諺になっている「元の木阿弥」の語源です。

阿含(あごん)

インドでの伝承聖典をさし、仏教では大乗経典にたいしてとくに原始仏教(小乗仏教)の経典をいいます。
南方系では五部に、北方系では、四部に分けています。
釈迦の言葉が多く含まれる。

阿字(あじ)

サンスクリットの最初の文字。
万有の根源を象徴した字。
密教では宇宙万有を法身とみなし、それを象徴する字。
すなわち、胎臓界大日如来の種字。
五輪の地輪の意味です。

阿闍梨(あじゃり)

梵語アーチャルヤ、アーチャリヤまたは、トカラ語アーシャリ、アシャリの音写。
バラモン教で祭式の教授者の意味です。
仏教でも戒を授け読経などを指導する師僧の意味です。

阿修羅(あしゅら)

大海の底に一大王国をもち、きわめて好戦的で勇猛な鬼神。
単に修羅ともいいます。

阿僧祗(あそうぎ)

梵語アサンキヤの音写。
阿僧企耶とも。
数の単位。
無数、無央数、不可数量。
十の五十九乗。
阿僧祗劫といえば無数の劫の意味です。
劫が無数の意無数の無数倍でとても数えきれない。

悪口(あっこう)

「妄語をいい、綺語を好み、悪口して他を罵(ののし)り、両舌して他の親好を破することを、口の四悪業という」と、『十善法語』という仏書に書かれています。

妄語はうそをつくことです。
綺語は真実にそむいて巧みに飾りたてた言葉。
悪口は人をあしざまに言うことです。
両舌は両方の人に違ったことをいい、両者を離間して争わせることで、二枚舌のことです。
この4つは、口でしゃべる悪の行為だといいますから、慎まなければなりません。

悪口は一般に「わるぐち」とか「あっこう」と読みますが、仏教では「あっく」と読みます。
悪心をもって人に悪言を加え、相手を悩ませ、傷つけることです。

あばた

「あばたもえくぼ」という諺(ことわざ)があります。
愛する者には、あばたさえもえくぼに見えるという、ほほえましい例えです。
この「あばた」とは、インドの語「アルブダ」の音写で、腫れ物とか水泡という意味で、経典にも出てくる言葉です。

仏教で説かれる八寒地獄の1つに、阿浮陀(あぶだ)地獄があります。
嘘をついたり、悪口を言ったり、聖者を軽蔑する言葉を吐いた者が落ちる地獄です。
この地獄に落ちると、極寒にさらされるため、身体中に腫れ物ができ、そのために、大変苦しむといわれています。

このアルブダ・阿浮陀があばたとなり、天然痘のあとに残る痕跡の意味となりました。

阿鼻叫喚(あびきょうかん)

「阿鼻叫喚の巷と化す」と表現されるように、阿鼻叫喚は、戦場や大災害の惨状を形容する語句で、地獄絵そのままに、人々が泣き叫び、逃げまどう悲惨な状況を表しています。
この「阿鼻」も「叫喚」も地獄の名前で、八大地獄の中に入っているものです。

阿鼻地獄は無間地獄と訳されるように、間断なく苦しみを受ける地獄の中で最も苦しい場所です。
叫喚地獄では、熱湯たぎる大釜の中に投げ込まれたり、猛火の鉄室に入れられたりの苦しみを受けます。

この両地獄ともあまりの苦しみに耐え切れず、泣き叫ぶというところから、前述のように、惨状を形容する言葉となりました。

尼(あま)

梵語アンバーの俗語アンマーの音写。
女性で出家得度したもの比丘尼(びくに)のことです。
原語は、子どもが母を呼ぶおかあちゃん・あなたの意味です。
教団では、比丘(男の僧)が比丘尼を(アンマー)と呼んだ。

天邪鬼(あまのじゃく)

仏教では、毘沙門天(びしゃもんてん)が腹部につけている鬼面のことを海若(あまのじゃく)といい、水神と考えられていましたが、後には毘沙門天の足の下に踏みつけられている二鬼を耐薫(あまのじゃく)と呼ぶようになりました。

阿羅漢(あらかん)

梵語アルハンの音写。
応供と漢訳。
羅漢ともいいます。
供養を受けるにふさわしい人、修行を終えた人、聖者
小乗仏教では、最高の悟(さとり)に到達した者を意味しています。
修行者の最高の段階です。

有り難い(ありがたい)

「ありがとう」は、一般に感謝やお礼の心を表す日常用語として常識になっています。

有り難いは、文字通り「有ること難い」「めったに会うことができない」という意味です。
そんなに希なことに出会ったのですから、かたじけない、もったいない、恐れ多いという感謝の気持ちを表すことになります。

三帰依文(さんきえもん)に「人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、今すでに聞く」とあるように、人間として生まれることや、仏の教えに遭うことは、なかなか難しく有り難いことです。

行脚(あんぎゃ)

行脚とは、僧が一定の住所をもたず、師や友を求め、自分の修養や教化のために、処々を遍歴することで、仏道修行のための旅のことをいいます。

仏陀は弟子たちに「これからは世の人々の利益と幸福を実現するために、国内をくまなく遍歴せよ」と教えました。

寺院仏教が発展してからは定住化しましたが、中国では禅宗が興隆して、諸国行脚が盛んになったといいます。
行脚僧は行く雲や流れる水のように、足にまかせて諸国を遍歴するので、雲水ともいいます。
俳人たちの諸国旅行もまた、行脚といいます。

安居(あんご)

梵語バルシカ(雨季)の訳。
お釈迦様と弟子達は定住せずに布教活動をしたが、雨季に集まって定住し論議などをする特別な修行期間があった。
安居はこのならわしのことです。
四月十六日から七月十五日までの期間を夏安居(げあんご)または雨安居(うあんご)といいます。
禅宗では四月十六から夏安居、十月十六から冬安居としています。

安楽(あんらく)

安楽は、心身に苦痛がなく、この上もなく楽な状態をいう日常用語です。

仏教では『無量寿経』に「その仏の世界を名づけて安楽という」とあるように、安楽は阿弥陀仏の極楽浄土のことをいいます。
安楽国、安楽仏土、安楽浄土、または安養浄土など、さまざまな表現がされていますが、みな阿弥陀仏の世界のことです。

安心(あんじん)

仏の教えにより、心の平安を得て物事に動じない心境のことです。
「安心立命(あんじんりゅうめい)」とは天命にまかせて死に際しても動揺しないことをいいます。

秋葉三尺坊大権現(あきばさんじゃくぼうだいごんげん)

古来「火防の神様」として信仰を集めている神仏習合の神。
秋葉山(静岡県浜松市)の山岳信仰で信州出身の修験者、三尺坊に由来し、観音菩薩の化身とされる。
江戸時代に全国へ広まった。

行脚(あんぎゃ)

僧侶が修行のために、善き師を求めて諸国、諸地方を回って歩くことです。


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異安心(いあんじん)

宗祖の教えにそむいた教説をとくことです。
真宗ではとくに安心を重視しているので、異なった安心の説をとくことです。

医王善逝(いおおぜんぜい)

医王はすぐれた医者。
衆生の心の病(無明・煩悩)をいやすために法薬を与える意で、仏を医師にたとえた。
善逝は仏、如来のことです。
医王善逝は薬師仏、薬師如来のことです。

威儀(いぎ)

礼式にかなった態度。
立居ふるまい、動作。
規律にかなった起居動作や立派な行為、作法。
戒律。
袈裟につけた平絎のひもの名称。
「威儀を正す」とは、なり、かたちをととのえ、作法にかなった立居ふるまいをすることをいいます。
「居ずまいをただす」とも、「威儀をつくろう」ともいいます。

仏教では、行(行くこと)、住(とどまること)、坐(坐すこと)、臥(ふせること)を四威儀といい、それぞれに守るべき戒律が定められています。
「威儀」は日常生活での一切の行動を包括しているのです。

戒律上の細かな作法や規則も威儀といい、小乗には三千威儀、大乗には八万威儀と、戒律の異名にもなっています。

袈裟の肩上から前後に通じる平絎(ひらぐけ)の紐も威儀と呼んでいます。


異口同音(いくどうおん)

異口同音とは、多くの人が口をそろえて、同じことを言うことです。
多くの人の説が一致することを意味する言葉です。
身は異なるから「異口」で、語説は一致するから「同音」です。
語る人はそれぞれ異なっても、語る内容は同じというわけで『弥勒成仏経』などの仏典にもよく出てくる言葉です。

意識(いしき)

眼・耳・鼻・舌・身・意の弟六番目、第六識。
前五識が対象を別々に対して第六識は対象を総括的に把握する、識知し思考する心。

以心伝心(いしんでんしん)

「以心伝心」という語句は、日常会話の中でも、よく使われますが、、不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)と並んで、禅の主旨をよく表現した有名な仏教語です。

仏陀の教えは、確かに経典に記されていますが、それだけで、悟りの極意が伝えられるものではなく、仏陀の教えの心髄は、文字や言葉によらないで、心から心へと、じかに伝えられるものであることを意味している語句です。

意識(いしき)・意地(いじ)
意識は哲学や心理学の分野だけでなく「異性を意識する」「自意識過剰」「勝ちを意識してかたくなる」など、一般にも用いられている言葉です。

また、意地も「男の意地」「女の意地」とか「意地が悪い」「意地をはる」など、日常語となっています。

仏教では、物を見るはたらきの眼識、音を聞く耳識、においを嗅ぐ鼻識、味わう舌識、触れる身識の5つの感覚器官を五識といい、その奥にあって、それらを含めた一切のものを総括的にとらえ、認識し推理し追想する心のはたらきを、第六識とか意識といいます。

このような意識は、ひとりひとりの人間の全体を支配し、認識作用の根源であり、物事が成立されるところなので意地というのです。
心根(こころね)という意味なのでしょう。

仏教語であった意識や意地という語が、今では学術用語や日常用語として、通用している例です。

韋駄天(いだてん)

韋駄天は、もとはインドの神で、スカンダといい、シヴァ神の子でした。
しかし、後に、仏教の守護神となり、増長天の八大将軍の一人に加えられました。

足の速い悪鬼を追いかけ、奪われた仏舎利を取り戻したという伝説を持っているほど、足の速いことで有名です。

一期一会(いちごいちえ)

「一期一会」は茶道の言葉です。
「一期」は人が生まれてから死ぬまでの一生、一生涯。
「一会」とは一つの宗教的なつどい。
ともに仏教語ですが、「一期一会」という成句は仏典にはありませんが、仏教の精神を表しています。

千利休の弟子の山上宗二という茶人が、『茶湯者覚悟十体』という、茶道の心得を示した書を著しています。

その中に「そもそも、茶湯の交会は、一期一会といいて、たとえば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかえらざる事を思えば、実に我一世一度の会なり」と記し、一生にたった一度の出会い主人も客も万事に心を配り、実意をもって交わりなさいと諭しています。

諸行無常の世の中、日常生活でも、一期一会の心をもって、ご縁を大切にしたいものです。

一大事(いちだいじ)

『法華経』に、「諸仏世尊は、唯一大事の因縁をもっての故に、世に出現したもう」という文があります。
仏陀は、ただ一つの偉大な目的と仕事のために、この世に現れたといいます。

その目的と仕事とは、仏の智恵を、凡夫に教え(開)、示し(示)、理解させ(悟)、その道に入らしめる(入)ことである、と説いています。
つまり、仏がこの世に現れたのは、衆生を救済するためだけだというのです。
これが一大事です。

『真宗新辞典』によると、仏の一大事とは「釈迦がこの世に出現された目的は、愚悪の凡夫を救うため、弥陀の本願を説きあらわすこと」であり、衆生の一大事とは「弥陀に救われて浄土に往生すること」と説明しています。

一味(いちみ)

釈迦の御法は唯一つ一味の雨にぞ似たりける
三草二木は品々に花咲き実なるぞあはれなる

仏法は貴賎・男女・大小に関わりなく平等無差別であることを「一味」といいます。
海水はすべて同一の塩味であるのに喩えたものです。
『正信偈』にも「如衆水入海一味」とあります。

そこから、一味同心(心を一つにして味方をする)一味徒党(同志の仲間)などの語句が生まれました。
しかし、悪党の一味などは穏やかでありません。

『梁塵秘抄』はさらに続けます。

阿弥陀仏の誓願ぞかへすがへすもたのもしき
一度御名をとなふれば仏に成るとぞ説いたまふ
我等は薄地の凡夫なり善根勤むる道知らず
一味の雨に潤ひてなどか仏にならざらん

一蓮托生(いちれんたくしょう)

一蓮托生とは、死後、極楽浄土で同じ蓮華の上に生まれることを指しています。
同じ信心で結ばれている人たち、夫婦、友人などが、来世に極楽浄土で一緒に暮らそうと願う時、また、この世で結ばれぬ恋人同士が、来世こそ添い遂げようと願う時などに使われる言葉のようです。

、いつしか、善悪に関係なく、運命をともにする意味に用いられるようになりました。

一乗(いちじょう)

「乗」とは、のりもののことで、大乗仏教の唯一究極の理のことです。

一刹那(いっせつな)

きわめて短い時間のことです。
一瞬のことと思えばよい。

一箇半箇(いっこはんこ)

ひとつと半分のことであるが、人間についていう場合、数のごく少ないことです。

一即一切(いっそくいっさい)

一がそのまま全体であり、全体の中に個があると共に、個の中に全体が含まれているという考え。


五つの障り。(いつつのさわり)

女性は梵天、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏身に成れないとする考え方。

一念三千(いちねんさんぜん)

一念の心の中には、宇宙の森羅万象あらゆるものがそなわっているという意味です。

因果(いんが)

原因と結果。
原因があれば必ず結果がある。
善因善果、悪因悪果、因果応報といいます。
現在の不運・不幸の原因となった過去・前世の悪業をいう場合もある。

因果応報(いんがおうほう)

ある原因によって、それにふさわしい結果が報われるということです。
簡単にいえば、善因善果・悪因悪果です。
果はまた因を生み、次の果をみちびいていく。

因縁(いんねん)

ある結果を生む直接の原因が因で、その因から結果に至らしめる間接の原因が縁。
あらゆるものは縁で生ずると仏教は説く。

印(いん)

印はインド語で「ムドラー」といい、標章を意味する言葉です。

仏教の教えの旗印、スローガンを「法印」といいます。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三教説を三法印。
これに一切皆苦を加えて四法印といいます。

仏像を拝むと、左右の手や指で、種々の形をつくっているのに気がつきます。
中には、持ち物がある像も見受けられます。
仏や菩薩がその悟りや誓願の内容を具体的に表したもので「印相」といいます。
手や指で表すのを「手印」といい、密教では特に重んじているようです。
「印を結ぶ」という言葉もあります。

因陀羅網(いんだらもう)

因陀羅は、梵語インドラの音写で帝釈天のことです。
帝尺天宮にはりめぐらされている網のことで、各結び目に珠玉がつけられ各々反映し合っている、重々無尽に交渉していることです。

引導(いんどう)

「引導を渡す」という言葉があります。
あきらめ切れないで迷っている人に、最後的な言葉を言い渡して、覚悟をきめさせ、あきらめさせるという意味なのでしょう。

葬式のとき、死者が迷わぬよう、僧が法語を与えることを、引導といいます。

引導とは、誘引開導の意味で、人々を教え導いて、仏の道に引き入れることをいいます。
「衆生を引導する」と、お経によく出て来るように、迷っている人々を、仏道にみちびくことです。


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有(う)

梵語バーヴァの訳。
存在。
生存の場所。
生死輪廻

有為転変(ういてんぺん)

因縁和合によってつくられた生滅変化する諸現象。
無常で変遷するもの。
これらの現象または存在は一瞬もとどまることなく移り変っていくことです。
この世のことを「有為転変の里」とも。

浮世(うきよ)

憂世とも書く。
憂いと苦悩にみちた世の中、定めのない現世をいいます。

有情(うじょう)

梵語サットヴァの訳。
存在するもの、の意味です。
生命を持ち、感情や意識を有するもの。
一切の生きものの総称。
草木を非情とか無情というのにたいしていいます。
有仏性の意味です。

有象無象(うぞうむぞう)

有形のものと無形のもの、すなわち一切のものをいいます。

有頂天(うちょうてん)

天上界の九つの天のうち、最も高い天の名。
得意の絶頂にあることをもいいます。

優曇華(うどんげ)

梵語ウドゥンバラの音写。
いちじくの一種で、三千年に一度の花が咲く。
仏または転輪聖王が出現すると咲く、といわれる。
非常に希なこと、珍しいことの喩え。
クサカゲロウの卵は別もの。

優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)

仏教の男の在家信者が、うばそく。
女性の在家信者がうばい。

運心(うんしん)

菩薩戒をうけるとき、戒師の前で心をめぐらし、自分の罪を懺悔することです。
心をよせることです。

雲水(うんすい)

「行雲流水」を略した言葉。
雲のように、水のように天下いたる所を住み家として行脚する修行僧。

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回向(えこう)

自分の善行、功徳でもって、他人によい結果の生ずることを願うことです。
仏事を営み、死者の成仏を願うことです。

衣鉢(えはつ・いはつ)

衣鉢(えはつ)
「えはち」とも読む。
三衣と一鉢のことです。
修業者が持つ九条と五条の袈裟と応量器といわれる鉢。
転じて教法、宗旨、奥義。
衣鉢を継ぐ、といえば、弟子となって教えを受ける、の意味です。

回心(えしん)

信仰心のなかった今までの心をひるがえして、正しい信仰に入ることです。

縁覚(えんがく)

自分ひとりの力で覚った人。

縁起(えんぎ)

因縁生起のことです。
ものごとの成立するさま。

厭穢欣浄(えんえごんじょう)

厭離穢士、欣求浄土の略。
けがれたこの世を厭い離れてきよらかな阿弥陀仏の浄土を願いもとめることです。

閻浮提(えんぶだい)

仏教で説く世界の、中央にそびえる須弥山の南にある大陸。
四洲のひとつ。
南膽部洲ともいいます。
インドのことを言っていたが、後には人間世界、われわれの地上世界、娑婆世界をいいます。

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往生(おうじょう)

浄土へ往って、仏の世界に生まれることです。
普通、死ぬことの意味にも用いられています。

応病与薬(おうびょうよやく)

釈迦は、医者が病人に薬を与えるように、人の悩みに応じて教えを説かれた。
その対機説法の意味です。
病いに応じて薬を与えることです。
人々の迷いや苦悩に応じて、それに適した教えを説くことです。

屋裏主人公(おくりしゅじんこう)

屋裏とは自己の内面。
すなわち、自己の内面に生まれながらそなわっている仏性のことです。
大我の本体をいいます。

送り火(おくりび)

お盆には、門に苧殻(おがら)を焚いて霊を迎え、十六日にはまた苧殻を焚いて霊を送る。
これが送り火です。